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<title>福レポート</title>
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<title>末期患者のターミナルステージを巡る自己決定権について </title>
<description> 末期患者のターミナルステージを巡る自己決定権について 2008/7/25  氏 家 拡 譽〓当該事例を巡る現状と問題の所在〓　末期患者、とりわけ末期癌患者のターミナルケアは癌治療体系の中に位置づけられねばならないが「治癒を目的とした医療」とは多くの相違点がある。両者に共通することは患者の疼痛・苦痛の緩和であるが、「治癒を目的とした医療」の場合は治療行為が「治すため」という大義名分の基に正当化されるのに対し、ター
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<![CDATA[ 末期患者のターミナルステージを巡る自己決定権について<br /><br /> 2008/7/25  氏 家 拡 譽<br /><br />〓当該事例を巡る現状と問題の所在〓<br />　末期患者、とりわけ末期癌患者のターミナルケアは癌治療体系の中に位置づけられねばならないが「治癒を目的とした医療」とは多くの相違点がある。両者に共通することは患者の疼痛・苦痛の緩和であるが、「治癒を目的とした医療」の場合は治療行為が「治すため」という大義名分の基に正当化されるのに対し、ターミナルケアでは近い将来、他界することがわかっているからこそ、最善・最適の医療とは何かを問わなければならない。<br />　末期癌患者とは、癌のターミナルステージにある患者のことをいう。ターミナルステージの定義としては（定義する人によって若干異なるが）ここでは生へ向けての集学的治療の効果が期待できず、そのような治療がむしろ不適切であると考えられる状態に置いて、「癌を治すことを放棄した時期から死亡するまでの期間」ということができる。<br />　この時期つまり末期癌患者に対する治療で重要なことは、「患者に対し、可能な限り、苦痛のない状態で、充実した生き方（死に方）が出来るよう、医療援助することである」と考えられる。期間としては、通常３～６ヶ月のことが多いという。<br />　ターミナルステージであることを誰が決定するかは難しい問題である。患者の意志よりも主治医の判断が優先される形で決定されているのが現状であると考えられるが、基本的にこの問題は患者（又は家族）の自己決定権に属する事柄として理解されなければならない。なぜならば、癌がすでに全身転移している場合などでは、誰もが納得する一定の治療法は無いのが一般的であり、しかも治す治療を主治医が放棄するということは、患者（又は家族）の生きる望みと価値を否定することと同義である。<br />　他方、死に逝く患者と看取る家族の価値観や希望は多様であり、看取る医療従事者や看取りの環境・場所等も異なる。末期癌患者に対しては、医師や看護師などの医療従事者としての立場からだけではなく、人間としてのトータルなケアが必要であると考える。なぜならば、死に向かう患者の必要とするものは医療的な対応だけでは不十分だからである。<br />〓自己決定権の内容〓<br />　さて、疼痛・苦痛を伴い、かつ衰弱など全身状態の悪化や症状の増悪を自覚しているケースにおいては、患者（又は家族）がターミナルステージであることを甘受し、積極的にターミナルケアを理解し実践することは珍しくないだろう。しかし、疼痛・苦痛の緩和が担保されている場合などにおいては、患者（又は家族）がターミナルステージであることを経験的に理解しにくい場面が想定されはしないだろうか。つまり、回復の可能性を捨てきれないケースである。<br />　このケースにおいては、主治医の所見が如何に悲観的なものであったとしても、治す治療を継続することになる。その背景には、従来の癌患者の治療体系では治癒を目的とした医療が主体で、ターミナルステージにある患者に対する医師の関心は低かったと言わざるを得ない。従って治癒を目的とした治療を強く望む患者（又は家族）に対して、主治医から尊厳に基づくターミナルケアの実践を積極的に啓蒙することは少ないのではないかと考えられる。<br />　しかし実際には、「治癒見込みのないことを充分理解した患者であっても、希望を持って残された時間を生き抜くことは可能」であり、またそのような患者に対する医療従事者の果たすべき重要な役割、医療もあると考える。<br />〓自己決定権の特徴・制約理由・論点〓<br />　ターミナルステージを認識するということは、つまり死に直結することを意味するのであり、患者（又は家族）にとっては極めて重大な要件であるからこそ、その選択と決断は患者（又は家族）の自己決定権に属する事柄であると考えられるのは前述のとおりであるが、末期患者の生活圏にターミナルケアのあるべき環境を提供できる施設、つまり優れたホスピスやビハーラが存在するか否かで、ターミナルステージの諾否に差異が生じることも推測される。<br />　シシリー・ソンダース（注1.）は、末期患者に対するターミナルケアのあるべき哲学を重要視した。その考え方（哲学）の要項は次の６項目である。<br />　１．患者と家族が死を認識していること<br />　２．医療処置の考え方は症状緩和のみということ<br />　３．疼痛緩和の考え方は痛みの予防ということ<br />　４．学際的なチームワークで支えること<br />　５．家族と友人の積極的な役割があること<br />　６．ボランティアの積極的な参加があること<br />　これら６項目が叶えられればターミナルケアは機能するが、逆説的には叶えられなければ「治癒見込みのないことを充分理解した患者が、希望を持って残された時間を生き抜くことは可能」とは言い難いのかもしれない。また、ターミナルケアでは末期患者の痛みを単に身体的要因から成るものとしてではなく、精神的要因や社会的要因・文化的要因などから構成される全人格的な痛みとして捉える。更に、ホスピスケアは家族をもケアの対象とされ、患者が死亡しても家族を対象としたケアが継続（通常は患者の死後１年間程度）される。<br />　これらのすべてに於いて満足出来る優れたホスピスやビハーラは、実は余り多いとはいえないばかりか、満足出来ない施設で「代用ターミナルケア」を強いられることもあると考えられる。<br />　これらの諸要件を勘案すると、ターミナルステージであることの選択と決断は患者（又は家族）の自己決定権に属すべき事柄であるにも拘わらず、その前提条件としての、中立的かつ十分な情報提供と、丁寧な啓蒙がなされないままでは、独立した自己決定権の行使が阻害されていると言わざるを得ない。<br />〓自己決定権を巡る私見〓<br />　ターミナルステージの期間は、通常３～６ヶ月のことが多いとされることからも、末期患者として自己決定までに費やせる時間は無尽蔵ではない。治癒見込みのないことを充分理解したうえで、希望を持って残された時間を生き抜くことは可能だとされるが、そのための環境は万全であって欲しいと誰もが考えるだろう。<br />　直視せねばならない事柄を先送りにしたり避けていたのでは、それこそ前向きに生き抜く（死を受け入れる）ことは叶わないだろう。人は生きて来たように死んで行くものなのだろう。生き様が死に様であり、生き方が死に方なのだろう。末期患者として、家族と共に、自己決定権を行使する機会に巡り合うことができれば、それはありがたいと感謝すべき事柄なのだろう。<br />　自己決定権は、憲法の明文がないにもかかわらず、憲法第13条後段の幸福追求権の解釈により憲法上の権利として承認されている。それは個人を道徳的人格、すなわち自律的存在として認知している証明でもある。人生におけるあらゆる経験は、この道徳的自律的人格を構築するためにあると考える。それは自信をもって、最期の自己決定権の行使ができるための修練とみることができるのではないだろうか。<br />　看取る家族への最大の慰めは、最期の「ありがとう」の一言だと思う。末期患者のターミナルステージを巡る自己決定権は、「この一言」をもって貫徹され決着するのである。　私見ながら、死に直結する自己決定権の正確な行使の前提条件として、医療従事者の説明義務を担保したうえで、ターミナルステージ認識を啓蒙するカウンセラーやコーディネーター、あるいは心療内科系の医療従事者などが第三者的、かつ専門的専従的に拘わることで、不安や疑念が払拭されるのは勿論、自信をもって最期のステージを受け入れられるまさに理想に近い環境を享受できるのではないだろうか。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />（注1.）シシリー・ソンダース（Dame Cicely Mary Strode Saunders、1918年6月22日 - 2005年7月14日）は、看護師であり、ソーシャルワーカーであり、医師でもあった。<br />“ホスピスの中のホスピス”と呼ばれるイギリス、聖クリストファーホスピスの創立者である。彼女は、末期患者の疼痛緩和に偉大なる新境地を開き、死にゆく人の尊厳を守り、死の瞬間まで人間らしく生きることを可能にした。“死の顔を変えた女性”と呼ばれる。<br />乳がんの再発で同ホスピスにて、マザー・テレサと同じ87歳で逝去。<br /><br />「 Not doing, but being 」　<br />　【和訳：何かをすることではなく、患者の側いにいること・・・】<br /><br />「 I did not found hospice. Hospice found me. 」<br />　【和訳：私がホスピスを創ったのではありません。ホスピスが私を見出したのです。】<br /><br /> ]]>
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<title>地域文化創成における住民参画型の必然的な帰結について</title>
<description> 2008/6/6 氏 家 拡 譽地域文化創成における住民参画型の必然的な帰結について　・はじめに　冒頭、野外彫刻として最初に思いつくのは（正確には野外彫刻というジャンルには属さないのだろうが）敢えて野外芸術あるいは環境芸術として広義に捕らえることを許されるとするならば、それは「さっぽろ雪まつり」と、箱根「彫刻の森美術館」である。　まず、毎年僅か７日間という期間限定の「さっぽろ雪まつり」【＊１】は、イベントとし
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<![CDATA[ 2008/6/6 氏 家 拡 譽<br /><br />地域文化創成における住民参画型の必然的な帰結について<br /><br />　・はじめに<br />　冒頭、野外彫刻として最初に思いつくのは（正確には野外彫刻というジャンルには属さないのだろうが）敢えて野外芸術あるいは環境芸術として広義に捕らえることを許されるとするならば、それは「さっぽろ雪まつり」と、箱根「彫刻の森美術館」である。<br />　まず、毎年僅か７日間という期間限定の「さっぽろ雪まつり」【＊１】は、イベントとして相当数の集客力と経済効果を誇るとともに国際的にも認知された大イベントである。そして、箱根「彫刻の森美術館」【＊２】は、日本で最初のオープンエアーミュージアムとしてあまりにも有名であり、1969年開館以来、環境芸術のパイオニアとしてリーダーとして、今なおその輝きは衰えを知らない。<br />　他方、なにげなく・さりげなく芸術作品に触れる機会が増えているのも事実であろう。具体例を捜せば、東京だけに限っても新宿新都庁舎にはじまり、丸の内・お台場・汐留・六本木などに代表されるように、芸術と建築の融合のもとで、まちの表情に優しさや潤いを見出そうとする試みがある。<br /><br />　・「環境」は作品の一部<br />　これら公共空間に設置される野外彫刻をめぐっては、「見たくない」「芸術の押売り」「迷惑」「目障り」「無駄遣い」「意味不明」「危険」「現地と何の関係もない」などといった反対の声があがることがあり、これを彫刻公害と形容することがある。<br />　公共空間（パブリック・スペース）とは個人に属さない公の場所である。しかし、日本語で「おおやけ」というと「官公、官製」ということが連想されるが、パブリックという英語には「公衆の、公開の、開放された」というイメージがある。そのことからも「パブリック」という言葉はこれから考えようとする「空間」を最もよく表していると思う。<br />　さて、野外彫刻を具現させようとする芸術家のなかにも、公共空間（パブリック・スペース）とは「舞台」であり「劇場」であるという理解があるかもしれない。<br />　しかし、この理解については疑問を呈したい。なぜならば、一般論として「舞台」あるいは「劇場」というところには、（稀に「出前タイプ」という場合もあるようだが）総じて自ら望んで足を運ぶものである。美術館でも博物館でも、伝統芸能でも歌舞音曲でも、リサイタルでもコンサートでも、鑑賞を希望するものが自らの意志で足を運ぶのである。つまりそれは、「公共舞台」ともいわないし「公共劇場」ともいわれないのである。<br />　かつて、イギリスの現代美術家・彫刻家ヘンリー・ムーアの野外作品をドイツ連邦共和国の北西部、ノルトライン＝ヴェストファーレン州の都市ミュンスター市に寄贈しようとしたところ、市当局が設置を拒否したことに端を発する「芸術と公共性」の大論争があった。【＊３】いうまでもなくその論点は、公共圏においては一定の拒否する自由や権利は認められてしかるべきであるというものだった。つまり、自ら望んで足を運んだわけでもないのに、受動的に見せられるのは、人格権の侵害であるという議論にまで発展し、市民のみならず全国の美術家、美術評論家や市民活動家、都市研究者も巻き込んで公共性と芸術の関係をめぐる議論となった。<br />　この議論は、いわゆるボタンの掛け違いから偶発的に発生したとも考えられる。なぜならば、ドイツ連邦共和国の北西部の都市ミュンスター市の多くの住民にとっては、なんの接点もないイギリス人の前衛的芸術家ヘンリー・ムーアの野外作品を、こつぜんと寄贈するといわれても、説得力のある根拠や必然性を見出すことはできなかったのではないだろうか。さらにその論拠についての議論がなされないままに、設置の諾否のみがひとり歩きをしたのではないだろうか。この件の問題点を一言で換言すれば、「遠くから持って来て置くだけ」だったということだろう。もしかしたら、各地で公開され使い回しされた作品の、墓場的な意味を見つけた地元住民が、皆無だったとはいえないだろう。この辺りに、彫刻公害にならないためのキーワードが隠されているのではないだろうか。つまり、必然的な「現地との結び付き」の重要性である。<br />　まず、彫刻公害にならないためには、「持って来て・置く」という考えは捨てて、そこに「あるべくしてある」的な、前提あるいは必然性が求められるのである。たとえば、どんなに高名な芸術家の作品であろうと、意図的に大都会の片隅に置こうと思って制作したものが、都合により恣意的に大自然の真ん中に置くことになったとしよう、こんなケースでは、多くの人から理解され感銘を与えるとは到底考えにくいのである。<br />　さらに、「現地との結び付き」という観点でいうならば、現地調達・現地制作が極めて重要である。そして、近年のコンペ形式がそうであるように、完成された作品には、現地との整合性に鑑みての芸術性などが求められると同時に、制作過程における現地住民との意志疎通の浸潤や、共同事業としての認識を共有することによって、単なる置物としての作品から、地域文化を構成する「なくてはならないもの」にまで昇華する可能性を秘めているということができるのではないだろうか。たとえば、ある作品について「ずっと以前からそこにあったと予感」させたり、「いつまでここにあり続けるべきと受容」させるような、（びっくり箱や異次元的な作品ではなく）むしろ現地の自然との共生の中に必然性を発見できる作品こそが、彫刻公害にならない野外彫刻なのではないだろうか。<br />　野外彫刻の芸術家が、公共空間（パブリック・スペース）と想定している空間は、美術館の展示フロアなどの単なる「設置場所」と同義語ではない。つまり「舞台」や「劇場」などと単一的に理解される「場」というよりも、はるかに多面性に富んだ空間であると考えるべきではないだろうか。そこには、作品自身の一生が内包化していると考えることができる。ある作品を人の一生にたとえれば、生まれて育って生活して晩年に至る、存在としての大部分の時間をここで過ごす。簡潔にいえば「ゆりかごから墓場まで」ということなのである。<br />　制作過程を共有することによって、「環境」そのものが作品の一部であり、作品そのものが「環境」の一部であるという理解がなされて然るべきではないだろうか。現地住民の多くが共同事業の参画者と認識されることで、現地の公共空間すべてが作品であると理解されることを可能にする。決して「環境」に同化したわけではない、「環境」を構成する重要でかけがえのないファクターとして存在しながら、ここにあるのだ。先出のミュンスター市における「芸術と公共性」の論争などに類似する彫刻公害の議論は、もうここでは発生し得ないだろう。<br />　そればかりか、制作過程における芸術家と現地住民とのコミュニケーションの構築は、現地住民参画の必然性を暗示していると理解すべきなのである。<br />　・「地域づくり」は「ひとづくり」<br />　現地住民参画の必然性については、必ずしも近年に始まったことではないのかもしれないが、野外彫刻を特定のイベントや一過性の展示として扱うのではなく、芸術文化を「地域づくり」の核として、いわば総合的な地域政策に欠くことの出来ない概念として理解しようとする考え方がある。これは、芸術の持つ力を最大限に活用して、芸術文化によって地域に引き起こされる「ひとづくり」までも視野に入れた、壮大であるがしかし、現実的で具現可能な青写真なのである。<br />　人々が暮らす都市部の空洞化や地方の過疎化に少子化が拍車をかけ、混迷を極める現代社会であるにもかかわらず、芸術文化によって活性化が図られ、大きな経済効果や思いがけない相乗効果をもたらした国際芸術祭がある。<br />　越後妻有という広大な地域を会場にして、官民一体で2000年から継続して開催している「大地の芸術祭～越後妻有アートトリエンナーレ～」【＊４】がそれである。３年に一度開催される美術展覧会のことを、イタリア語でトリエンナーレという。この芸術祭も開催を重ねるごとに規模が拡大し、前回2006年の同芸術祭では40の国と地域から　225組のパブリック・アート・アーティストが参画した。<br />　越後妻有とは、新潟県の最南部に位置し、長野県と県境を共有し十日町市と津南町の合わせて760k㎡の広大な地域を指す。人口は約74000人、65歳以上が人口の3割を占める過疎高齢化地域である。2006年の同芸術祭の来場者数は約35万人を数え、しかもその60％が県外からの来場者と推定される。第一義的には、大きな経済効果が生まれている。しかし、そればかりではない、注目されるのは牧歌的な自然の美しさや地域住民の純朴さに称賛の声が起こり、地元には笑顔と元気と活気とをもたらしているという。また、国内や海外のメディアにも数多く取り上げられ、地域イメージの向上も果たした。<br />　これらは、世界各国の芸術家が、制作過程において長期にわたり現地に滞在し、住民との交流を礎に構築された芸術文化の創成は、芸術の持つ力を最大限に活用することによって、はじめて獲得することができるのであろう。<br />　住民参画型の必然的な帰結によって、「地域づくり」は「ひとづくり」までも同時に叶えてくれるのである。芸術は、未知の力と無限の可能性とを備えていると考える所以である。<br /><br />【＊１】<br />観客数の推移では、会期が７日間に延長された第38回（昭和62年）以降では第52回（平成13年）の234万4,000人が最高。第58回（平成19年）の内訳としては、約49％が市民で、道内からの観光客が36％、道外からが13％となっている。外国人も、約４万人が来場しているとされる。<br />○さっぽろ雪まつり実行委員会ＨＰより <br /><br />【＊２】<br />統計としては公表していないそうだが、直接「彫刻の森美術館」に問い合わせた処、年間入場者数は約■■万人で、毎年横ばいということだった（部外秘取扱注意）<br />ちなみに福島県立美術館にも問い合わせた処、入場者数は企画展の内容や話題性で大きく増減するが、概ね10万人前後で推移しており、傾向としての増減は認められないということだった。<br /><br />【＊３】<br />芸術と公共性」の論争<br />このプロジェクトの発端はイギリスの現代美術家・彫刻家ヘンリー・ムーアの野外作品をミュンスター市に寄贈しようとしたところ、市当局が設置を拒否したことに端を発する。カトリックの大聖堂がある、人口30万人に満たない保守的な地方都市としてはムーアの作品は芸術として認め難かったのだが、この決定は多くの反応を呼んだ。<br />*作品として素晴らしいのに寄贈を拒否するのはおかしい<br />*市の保守性と文化レベルの低さが笑いものになっている<br />*問題の作品は前衛的で意味不明であり、見たくもないし町の中にも置いてほしくない<br />*芸術だからといって何でも許されるものではない<br />*たとえいい作品でも、公共の場所に置くための作品はもう少し場所のことを考えて設置してほしい<br />*市民生活から遊離した芸術の方もあり方を考え直さねばならない<br />こうした論争が起こり、市民のみならず全国の美術家、美術評論家や市民活動家、都市研究者もまきこんで公共性と芸術の関係をめぐる議論がなされた。<br />○フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』より<br /><br />【＊４】<br />大地の芸術祭～越後妻有アートトリエンナーレ2006～<br />会期 ：2006年7月23日～9月10日 <br />会場 ：越後妻有2市町760k㎡　新潟県十日町市、津南町<br />主催 ：大地の芸術祭実行委員会 <br />実行委員長 ：田口直人（十日町市長） <br />名誉実行委員長 ：泉田裕彦（新潟県知事） <br />総合ディレクター：北川フラム 　 <br />アートアドバイザー ：トム・フィンケルパール（アメリカ）、ホウ・ハンルゥ（中国／フランス）、ヤン・チェル・リー（韓国）、中原佑介（日本）、オル・オギュイベ（ナイジェリア）、ジェームズ・パットナム（イギリス）、ウルリッヒ・シュナイダー（ドイツ）ディレクター ：Fの会（いけばな）、入澤美時（陶芸）、入澤ユカ（アート）、田中文男（空家プロジェクト） <br />参加アーティスト ：40の国と地域　225組<br />○大地の芸術祭実行委員会ＨＰより<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>レポート集</dc:subject>
<dc:date>2008-09-29T14:43:17+09:00</dc:date>
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<title>福島県相馬市における交付税改革と地方行財政 </title>
<description> 地方行政論(荒木田 岳 教授)レポート　2008/7/30 氏 家 拡 譽福島県相馬市における交付税改革と地方行財政 　　　　　　　　　 　　 〓序　論〓　相馬市の財政状況は、景気の低迷による市税の減収、地方交付税減少による歳入の減額、また国の景気対策による公債費負担の増加により収支バランスが崩れ、財政悪化傾向となっている。この傾向を打開すべく、遊休市有地売却や人件費削減及び事務事業の見直し等により、「効率的な行政運
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<![CDATA[ 地方行政論(荒木田 岳 教授)レポート　<br />2008/7/30 氏 家 拡 譽<br /><br />福島県相馬市における交付税改革と地方行財政 <br />　　　　　　　　　 　　 <br />〓序　論〓<br /><br />　相馬市の財政状況は、景気の低迷による市税の減収、地方交付税減少による歳入の減額、また国の<br />景気対策による公債費負担の増加により収支バランスが崩れ、財政悪化傾向となっている。この傾向<br />を打開すべく、遊休市有地売却や人件費削減及び事務事業の見直し等により、「効率的な行政運営」<br />を目指している。但し、今後も扶助費、退職者増加による義務的経費の増加等により厳しい財政運営<br />が続くものと予想される。また、更なる行財政改革が求められている中、市当局では定員・給与の適<br />正化による人件費の削減と補償金免除繰上償還により公債費負担の軽減を図り、早期の財政健全化を<br />図るビジョンを示唆している。<br />　他方、退職者不補充とパート従業員の適所雇用をはじめとする、人件費削減及び事務事業の見直し<br />は、市当局の見解である「効率的な行政運営」であるが、万が一にも適正運営を誤ると、直ちに行政<br />サービスへの悪影響が発生しかねないので、十分に留意すべき要件であろう。そればかりか、近い将<br />来発生が予想されている、宮城沖地震などに対する防災や治安等に対しても配慮しなければならない。<br />（例えば、大規模地震により市立の幼小中学校・病院等が崩壊し死傷者が発生するようなことがあれ<br />ば、それは天災ではなく人災なのである。市民の生命と財産を守るために、最低限必要な歳出までも<br />圧縮することは「効率的な行政運営」では決してないのである。）<br /><br />〓具体的な財政状況の分析〓<br /><br />　景気の低迷による市税の減少は慢性化しつつあり、別添１の表及びグラフのとおり、地方交付税の<br />削減も平成13年度以降は対前年度比マイナスが続くなどによる歳入の減額に際して、その財源不足分<br />を財政調整基金を取崩して対応している状況である。また、財政力指数は（基準財政収入額／基準財<br />政需要額）は0.5程度で推移しており、最近の経常収支比率も12年度78.2％ 13年度80.9％ 14年度81.6％<br />15年度82.6％ 16年度88.4% 17年度90.7% 18年度94.2% と財政の深刻化（悪化）が恒常化している。<br />　歳入面では相馬市中核工業団地への企業進出が開始され市税等の多少の増加は見込める状況だが、<br />国の財政改革により普通交付税は更に減少するものと予想される。一方、歳出面では扶助費や退職手<br />当等の義務的経費の増加や、債務負担行為に係る元利補給金や特別会計への繰出金の削減も難しい<br />状況であることから、厳しい財政運営を強いられる期間が、今後も継続するものと考えられる。<br /><br />〓相馬市の今後の取り組み〓<br /><br />　多くの地方自治体では、今後とも地方交付税の大幅な削減が進められるならば、地方財政は危機的<br />な事態に陥り、医療・福祉・教育などの市民生活に重大な影響を及ぼすだけでなく、地方自治の運営<br />そのものが立ちいかなくなることも危惧される。換言するならば、地方交付税がなし崩し的に削減さ<br />れ続けば、自治体（経営？）は成り立たない。地方分権を実現して自立することはできない。<br />　相馬市では、別添２～５のとおり「財政健全化計画」を公表した。それによると、『平成19年度か<br />ら平成27年度までは、借入金の返済額が過大なため、単年度収支が赤字となり基金が減少していきま<br />すが、平成28年度から黒字に好転する見とおしです。』（相馬市ホームページより）とある。<br />　これらは論理的方法論に基づく科学的検証なのだろうが、「絵に描いた餅」にならないという保証<br />はどこにもない。例えば、大規模災害（激甚災害指定）や更なる景気低迷。また世界規模での金融不<br />安や恐慌、環境破壊や飢餓、テロや戦争といった不確定要因は勘案されていない。加えて、将来にお<br />ける人口予測などの基礎的な評価さえ不確実と言わざるを得ないのである。<br /><br />〓私　見〓<br /><br />　自治体の予算は損益計算の予想が単年度主義に基づいているといえる。行財政改革とは、本来特別<br />会計を含めた連結ベースでの借金総額と、支払い義務を負う経費（例えば退職金）を把握することが<br />重要である筈なのだが、一般的に、自治体というものは前年度の損益計算書はあっても一番必要なバ<br />ランスシートがなく財政の実体が分からないのだ。<br />　相馬市でも、残念ながらこれらの諸問題は未解決のままで、たとえば暫定的な措置として、学校は<br />資産に計上し、国に対する債権は計上していないままであるが、将来の財政シミュレーションとして<br />「今後20年の財政見とおし」＝財政健全化計画＝つまり資金繰り目論見とでもいうべきものを公表し<br />た。<br />　これによれば、返済計画と退職金発生予想などの今後の義務的経費を年度ごとに並べ、そこに必要<br />最低限の公共事業を加えて今後の歳出の大枠を掴むことは可能だ。他方、歳入であるが将来人口の予<br />想などから市税の大体の目論見は可能だが、予測の最も難しいのが依存財源であり、とりわけ地方交<br />付税と特別地方交付税の今後の推移である。<br />　いずれにせよ、相馬市は「財政健全化」という避けては通れぬこととはいえ、現況の地方自治体と<br />しては「難題？」ともいえる極めて厳しいミッションに、果敢な挑戦を開始したといえよう。<br />硬直した歳出抑制主義との批判もあろうが、私はこのベクトルは決して誤ったものではないと考える。<br />つまり、少しでも先送りしたならば・即・財政破綻・だという危機意識が根底にあるからだ。痛みも伴う<br />決断だが、もう先送りはできない状況なのである。<br />　但し、市民の「生命と財産が何より最優先で担保されなければならない」ことはいうまでもない。<br />（相馬市が災害等緊急拠出資金として確保しているのは僅かに30億円だけ）更には、現代の自治体に<br />求められている要件は多岐にわたり、財政逼迫の砌、税金を使う限りは納税者である相馬市民にきち<br />んとした説明責任を果たすための情報開示、つまり透明性の確保が信頼関係の構築に繋がると考える。<br />小さな自治体の弱点を逆手に執って、顔が見える行政政策の実現こそが、現下の歴史的な危機を打破<br />する突破口になるのではないだろうか。そのときこそ、痛みを伴う「財政健全化計画」の理解を共有<br />することができるのであろう。<br /><br /><br />相馬市地方交付税（普通＋特別＝合計）の推移<br /><br />　　 年　度 　　  普通交付税 　 　 特別交付税 　　  　 合 　計　　　  増減比<br />  平成 9年度 　　 4,026,804 　　　　 600,267 　　　　 4,627,071 　  　　 4.4<br />  平成10年度 　　 4,115,393 　　　　 638,120 　　　　 4,753,513 　  　　 2.7<br />  平成11年度 　　 4,231,248 　　　　 711,021 　　　　 4,942,269 　  　　 4.0<br />  平成12年度 　　 4,308,492 　　　　 738,131 　　　　 5,046,623 　　  　 2.1<br />  平成13年度 　　 3,994,457 　　　　 686,091 　　　　 4,680,548 　　　▲ 7.3<br />  平成14年度 　　 3,912,950 　　　　 667,070 　　　　 4,580,020 　　　▲ 2.1<br />  平成15年度 　　 3,876,941 　　　　 621,281　 　　　 4,498,222 　　　▲ 1.8<br />  平成16年度 　　 3,618,448 　　　　 556,157 　　　　 4,174,605 　　　▲ 7.2<br />  平成17年度 　　 3,628,877 　　　　 500,088 　　　　 4,128,965 　　　▲ 1.0<br />  平成18年度 　　 3,432,556 　　　　 499,054 　　　　 3,931,610 　　　▲ 4.8<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　 単位：千円／増減比：％<br /><br /><br />あとがき　<br /><br />相馬市の平成19年度退職者数は20人で、新規正規採用枠は僅かに５人で、パート従業員を若干名補うだけだそうだ。しかも、パート従業員は最長でも３年間しか更新できないという。このままの状態が永年継続されれば、正規採用者は過半数を割り、勤務経験年数３年未満のパート従業員が過半数を超えてしまう。正規職員の仕事は増え、給与カットは恒常化し、モチベーションの維持も「言うに易く成すに難し」状態なのではないだろうか。市役所に勤務する職員もパート従業員も、「納税者でありその多くは相馬市民である」ことを理解することも肝要なのではないだろうか。<br /> <br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:date>2008-09-29T14:42:24+09:00</dc:date>
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<title>年占としての「相撲」をめぐる信仰と習俗</title>
<description> 2008/8/25　氏 家 拡 譽年占としての「相撲」をめぐる信仰と習俗１．神話から史実へ～競技としての相撲のもつ通文化史的性格～　相撲は、日本の国技といわれるものの、「競技」という視座にたてば日本人の間にのみ由来し発達してきたものではない。歴史的には古代から既に世界中で、相撲の形態に非常によく似た競技が盛んに行なわれていたようである。　人間の本質として互いに組んだり、手を用いて相手をつかんで倒す原始的な形態
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<![CDATA[ 2008/8/25　氏 家 拡 譽<br />年占としての「相撲」をめぐる信仰と習俗<br /><br />１．神話から史実へ<br /><br />～競技としての相撲のもつ通文化史的性格～<br /><br />　相撲は、日本の国技といわれるものの、「競技」という視座にたてば日本人の間にのみ由来し発達してきたものではない。歴史的には古代から既に世界中で、相撲の形態に非常によく似た競技が盛んに行なわれていたようである。<br />　人間の本質として互いに組んだり、手を用いて相手をつかんで倒す原始的な形態は、現代の幼少年の遊戯や、未開民族の間にも見いだすことができ、また特定の地域、あるいは民族に限られたものでもない。<br />　約4000年前の古代イラク初期王朝のトウトウブ（現カファジェ）で発掘された「闘技脚つき双壷」は、花瓶のような壷を頭に載せ、革帯を腰に巻いた男二人が、がっぷり右四つに組んでいる青銅造りの置物で、互いに革帯を引き合っている姿は、日本の相撲と酷似している。<br />　また、約2500年前のエジプトのベンハッサンにある横穴の壁画には、二人の裸体の男が数多く様々な姿態で取り組む様子が描かれている。　<br />　さらに、中国の河南省密県打虎亭で発掘された後漢末期（2～3世紀）の墓室壁画「角觝（かくてい）の図」では、チョンまげのように頭髪を高く結び 2メートル程の壇上で取り組んでいる様子が描かれている。一般的には、漢時代の「角觝」は、相撲だけでなく技芸雑戯の総称であったと解されているが、いずれにせよ、この時代に既に相撲に類似した競技が行なわれていたことが推察される。<br />　さらに、　5世紀頃の古代朝鮮、高句麗時代の首都、現在の中国吉林省輯安通溝にある高句麗王の大古墳角觝塚と舞踊塚のなかにも、「相撲壁画」が残されている。力士は上半身裸で、まわしに近いパンツ状のものをはき素足で取り組んでいる。舞踊塚の方は力士が相対して手を差し伸べ、突進していく立ち合いの様子が描かれている。これらの壁画から、5世紀頃にはかなり現在の相撲に近い形で、競技としての相撲が行なわれていたと　十分推察される。<br />　また日本においても、和歌山県井辺八幡山古墳から出土した埴輪には、ふんどしを締め、素足の裸体の男子像がある。この立像はハチマキを締め、両足をガニ股のように開き、腕を前方に伸ばしていることから、相撲の立ち合いを十分想像することができる。この古墳は、　6世紀初頭と推定され、古墳時代にも既に盛んに競技としての相撲が盛んに行なわれていたことを立証するものであると考えられる。<br />　未開民族にも同様に、相撲と非常によく似た競技を行う民族を見つけることができる。アマゾン・インディオの聖地であるシングー川上流に住むカマユラ族は、裸にまわしだけをつけた姿で、相手を投げ飛ばすか、背中を付けることを競うのである。そして、最も興味深い点は、彼らは成人式においてこの相撲を行なうということである。神聖な儀式に相撲を行なうということは、彼らにとって歴史的な慣習であり、単に娯楽として近年行なわれるようになったものでないことは容易に想像できる。<br />　このように、競技としての相撲は世界史の上で、通文化史的にみられるものである。<br /><br />～我が国の神話にみられる相撲～<br /><br />　日本の相撲についての文献としては、まず『古事記』や『日本書紀』にみられる、いわゆる神話としての伝説から始まる。<br />　その最古のものは、『古事記　上巻　葦原中国の平定　四．事代主神の服従』及び『同、五．建御名方神の服従』（1）に、次のように記されている。<br /><br />　　　是以、此二神、降到出雲國伊那佐之小濱而、【伊那佐三字以音】拔十掬劍、逆刺立千<br />　　浪穗、趺坐其劍前、問其大國主神言、天照大御神、高木神之命以、問使之。汝之宇志波<br />　　祁流【此五字以音】葦原中國者、我御子之所知國言依賜。故、汝心奈何。爾、答白之、<br />　　僕者不得白。我子八重言代主神、是可白。然、爲鳥遊、取魚而、往御大之前、未還來。<br />　　故爾、遣天鳥船神、徴來八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言、恐之。此國者、立<br />　　奉天神之御子、即蹈傾其船而、天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。【訓柴云布斯】故爾、<br />　　問其大國主神、今、汝子事代主神、如此白訖。亦有可白子乎。於是、亦白之、亦我子有<br />　　建御名方神。除此者無也。如此白之間、其建御名方神、千引石□手末而來、言誰來我國<br />　　而、忍々如此物言。然、欲爲力競。故、我先欲取其御手。故、令取其御手者、即取成立<br />　　氷、亦取成劍刄。故爾、懼而退居。爾、欲取其建御名方神之手、乞歸而取者、如取若葦<br />　　□批而投離者、即逃去。故、追往而、迫到科野國之洲羽海、將殺時、建御名方神白、恐。<br />　　莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦<br />　　原中國者、隨天神御子之命獻。<br /><br />　つまり、始め天孫降臨のときに、大国主命が出雲国へ行き葦原中津国を占領し、これを皇孫に譲ることを承知しなかったため、天照大神が建御雷神（たけみかづちのかみ）を出雲に派遣し帰順を勧めたところ、大国主命の御子、建御名方神（たけみなかた）が武勇を好む神であったために、「力くらべ」によって事を決めることを申し出て、ここに両神の相撲となったのである。この「力くらべ」は、建御名方神が敗れ信濃国の諏訪に逃げ去ったため、「国ゆずり」という大難題も無事解決したというものだ。また、諏訪湖畔にある国幣中社諏訪明神は、この建御名方神を現在もなお祭神として祀っている。<br />　また、十一代垂仁天皇の御代に行われたとされる野見宿禰（のみのすくね）と当麻蹶速（たいまのけはや）の相撲について、『日本書紀　巻第六　活目入彦五十挾芽天皇　垂仁天皇』（2）は、その様子を次のように記している。<br />　　<br />　　　七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士。曰當麻蹶速。其為人也、強力以<br />　　能毀角申鉤。恒語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇強力者、而不期死生、頓<br />　　得争力焉。天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當麻蹶速者、天下之力士也。若有比此人耶。一<br />　　臣進言、臣聞、出雲国有勇士。曰野見宿禰。試召是人、欲当于蹶速。即日、遣倭直祖長<br />　　尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰自出雲至。則當麻蹶速与野見宿禰令□力。二人相對<br />　　立。各挙足相蹶。則蹶折當麻蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地、悉賜<br />　　野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。<br /><br />　つまり、垂仁天皇の7年7月7日に　天覧の許で野見宿禰と当麻蹶速が「□力（かくりき）」を行ない、野見宿禰が勝ったというもので、戦前はこの記事が史実として扱われ、宿禰は日本相撲の始祖として祀られている。この相撲跡の伝承地は、奈良県三輪山のふもと桜井市穴師の大兵主神社の入口にあり、初瀬川に沿った同市出雲地区には、宿禰の古墳跡伝承地と、宿禰を祀った巨大な五輪塔が現存している。<br />　以上のふたつの話は、歴史的な事実ではなく、極めて眉唾な語ではあるが、民族学的にはまだ無文字時代の「力くらべ」という相撲の話が伝承され、遠い先祖から語り伝えられてきた部族間の争いの話を、物語や説話に託して伝承されたものであると解釈することができる。<br /><br />～史実としての相撲～<br /><br />日本の相撲が史実として記録されたのは、今から1300年前の皇極天皇元年（642年）からで、同年7月、百済の皇族の使者をもてなすため健児（宮廷の衛士）を招集し、相撲をとらせたことが『日本書紀　巻第24　天豐財重日足姫天皇　皇極天皇』（3）に、次のように記されている。<br /><br />　　　秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百済使人大佐平智積等於朝。【或本云。百済<br />　　使人大佐平智積及児達率闕名、恩率軍善】乃命健児、相撲於翹岐前。智積等、宴畢而退、<br />　　拝翹岐門。丙子、蘇我臣人鹿豎者、獲白雀子。是日同時、有人、以白雀納籠、而逆蘇我<br />　　大臣。戊寅、群臣相謂之曰、随村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或祷河<br />　　伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺々轉讀大乘經典。悔過如仏所説、敬而祈雨。庚辰、<br />　　於大寺南庭、嚴佛菩薩像与四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香<br />　　鑪、燒香發願。辛巳、微雨。壬午。不能祈雨。故停讀經。<br /><br />　ついで、41年後の天武天皇の11年（683年）7月には、宮中において大隅隼人（おおすみのはやびと）と阿多隼人（あたのはやびと）の相撲の記録が『日本書紀　巻第29　天淳中原瀛真人天皇　天武天皇』（4）〓略原文〓にある。<br />　隼人は古くから南九州の薩摩大隅半島にいた異種族で、敏捷勇猛のためにハヤビトまたはハヤトと呼ばれ、交替で上京して宮門を守衛し、儀式のあるときは歌舞を奏し健児と同様に兵部省に所属していた。<br /><br />　さらに、77年後の元正天皇の養老3年（719）には、宮中にはじめて「抜出司」を任命している記録が『続日本紀　巻第8　日本根子高瑞淨足姫天皇　元正天皇』（5）〓略原文〓にある。<br />　この抜出司は後の相撲司のことで、相撲人を選抜して集め、監督する役職である。したがって、当時すでに朝廷の相撲に関する制度がかなり整えられていたと推察される。<br />　<br />　以上、略記した相撲史実に関する記録は、宿禰・蹶速の記事以降、日本書紀・続日本紀に散見するものであって相撲記事は非常に乏しいといえる。しかし、日本書紀における史実については朝廷の公の記録を中心としていたため、百済の皇族をもてなす宴会の余興相撲とか、あるいは隼人が上京して献上物を奉った場合というように、特段に記載の必要のあったものだけを執り上げているためだと考えられる。そのため、日常行なわれていた健児の相撲や、隼人の相撲を天覧したという事実は、特に記録しなかったと考えられる。むしろ宮廷では、益々相撲が日常的なものとなり、重要な武術の鍛練として、また余興として、しばしば催されたことと推察される。<br /><br />　しかし、聖武天皇の時代（724－749年）になると相撲記事は、内容的に更に精彩を帯びてくる。<br />　神亀5年（728年）4月には、諸国の郡司に対し　相撲人を献上するよう強い命令が出されたことが『続日本紀　巻第11　天璽国押開豊桜彦天皇　聖武天皇』（6）〓略原文〓にある。<br />　原文要旨は、諸国の郡司らの部下に、騎乗・弓矢・相撲などに優れた者がいると王侯貴族の館に集め、勅令を出しても隠して出さない場合は、現在の官職を解き郡司を処罰し、違勅の罪で獄に下すという布告である。<br />　このようなことがあった後、聖武天皇の天平6年（734年）7月7日に、天覧相撲が宮中の南苑で催されたことが『続日本紀　同巻第11』（7）に、更に同10年（738年）7月7日にも、天覧相撲が行なわれたという記録が、『続日本紀　同巻第11』（８）にある。<br />　記録にみられる聖武天皇の相撲天覧は、この2度だけだが、この頃すでに7月7日の宿禰・蹶速の相撲天覧故事にちなんで、天覧相撲を行なうことが慣習となっていたと考えられる。<br />　それは、先にも述べた皇極天皇の隼人の相撲　元正天皇の抜出司の任命も、すべて7月であったことからも十分考え得るのである。<br />　そして、七夕の宴の余興として行なわれていた相撲も、しだいに大規模な「相撲節会」として発展していった。<br />　しかし、民族学的にはこれまで長く全国的に庶民の間で行なわれていた神事相撲が、この頃になって天皇家の貴族に愛好されるようになり、宮廷において執り上げられたと考えられるのである。<br />　この点については、次節において詳しく述べることにする。<br /><br />注（１）小野田光雄『神道大系古典編　1.古事記　上巻』　昭和52年12月20日　神道大系編纂会　東京　206～209頁<br />　　（２）坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野　晋『日本古典文学大系67　日本書紀　上』　昭和42年3月31日　岩波書店　東京　265～267頁<br />　　（３）同『日本古典文学大系67　日本書紀　下』　241頁<br />　　（４）同『日本古典文学大系67　日本書紀　下』　453頁<br />　　（５）黒板勝美『国史大系　第2巻　続日本紀』　昭和10年12月2日　国史大系刊行会　東京　77頁<br />　　（６）同『国史大系　第2巻　続日本紀』　131～132頁<br />　　（７）同『国史大系　第2巻　続日本紀』　134頁<br />　　（８）同『国史大系　第2巻　続日本紀』　152頁<br /><br /><br />２．農耕儀礼における相撲<br /><br />～七夕の相撲～<br /><br />　前節において述べたとおり、宿禰・蹶速の相撲がやがて七夕の日のこととして記されるようになったのは、民族学的に見てどのような意味合いからであったのだろうか。<br />　七夕というと一般的には、牽牛（けんぎゅう）と織女（しょくじょ）のふたつの星が相会うということに関連する星祭りであると考えられている。そしてまた、七夕は中国から伝来した年中行事のひとつであると考えられている。もちろん7月に結び付けて7日を選んできたもの、中国に由来することであるが、しかしだからといって、そのまま七夕の行事すべてを、伝来の外来習俗であると見るわけにはいかない。他の年中行事がそうであるように、一応固有のそれぞれの地域、季節観・人間観・世界観が初めにあって、そこに外来の年中行事が結び付いて、独特な日本的なものとして年中行事を形成したのだと見なければならない。<br />　牽牛・織女のふたつの星が相会う話は、万葉集以来よく知られているが、一般の民衆の間ではそうした星に関するロマンチックな説話を通じての星祭りよりも、いわゆる盆の前の一つの折り目とする意識が濃厚であったと考えられる。<br />　七夕は盆の前提として、いわば先祖供養の開幕する日であったと考え得る事例としては、盆に際して今日でも墓掃除を七夕に行なうとか、七日盆（なのかぼん）と称して盆花を用意するとか、墓地へ行く道の下草刈りをするとかいう風習を指摘することができる。<br />　盆は先祖供養のひとつであって、他の季節にも同様のことが行なわれていたが、民族学的に見て、特に一年の前半を終えて畑作物の収穫も一段落したのを祝いながら、後半の農民がもっとも期待する水田の豊作を願って、7月の行事は特に重要であったと考えられる。<br />　これが、盆の行事を重からしめることになったとすれば、七夕も農耕儀礼のひとつとして深い意味を持つ行事であったといえる。<br />　こうして農業生産上の重要な折り目にあたって先祖供養をし、農作が後半年どうなるかを占う年占（としうら）が、農民の自然な要求であり、そのひとつの手段として相撲が行なわれたのである。年占には、いろいろなものがあり、騎乗・綱引きなどもそれとして行なわれてきたが、七夕の年占としては相撲がもっとも一般的であったようである。<br />　七夕の相撲が農耕儀礼を意味するものであったとするならば、宿禰・蹶速の相撲が後に、垂仁天皇　7年7月7日に行なわれたと伝承された背景にも、農耕儀礼のひとつとしての意味合いが隠されていた筈である。<br />　このような視座から、宿禰・蹶速の相撲はどのように解釈することができるであろうか。<br />　この神話は、次のとおりである。（原文・『日本書紀　巻第六　活目入彦五十挾芽天皇垂仁天皇』・本稿2～3ページ参照）<br /><br />　　　垂仁天皇七年の秋七月の己巳の朔乙亥に左右、奏して言うす。「當麻邑に勇み悍し士<br />　　有り。當麻蹶速と曰ふ。其の人と爲り、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。恆に衆中に<br />　　語りて曰はく、『四方に求むるに、豈我が力に比ぶ者有らむか。何して強力者に遇ひて、<br />　　死生を期はずして、頓に爭力せむ』」天皇これを聞して、群卿に詔して曰はく、「朕聞<br />　　けり、當麻蹶速は、天下の力士なりと。若し此に比ぶ人有らむや。」一の臣、進みて言<br />　　す、「臣聞る、出雲國に勇士有り。野見宿禰と曰ふ。試に是の人を召して、蹶速に當せ<br />　　むと欲ふ。」即日に、倭直の祖、長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。是に、野見宿禰、<br />　　出雲より至れり。則ち當麻蹶速と野見宿禰と□力（かくりき）しからしむ。二人、相對<br />　　ひて立つ。各、足を擧げて相蹶む。則ち當麻蹶速が脇骨を蹶み折く。亦、其の腰を蹈み<br />　　折きてこれを殺しつ。故、當麻蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是を以て、其<br />　　の邑に腰折田有るの縁なり。野見宿禰、乃ち留り仕へむ。<br /><br />　現在も、当麻村には「腰折田」という字（あざ）があるが、これがその地名の起りの話である。<br />　相撲という二者抗争の「力くらべ」は、このばあい遠いところからやって来たものと、その土地のものとの対立であり、当麻の村の蹶速は、遠来の出雲の野見宿禰に負けたのである。この神話のモチーフは、「まれびと神」と「土地の精霊」との対立抗争であると解釈することができる。<br />　そして、更に重要と思われることは、それが「腰折田のあることの縁」として伝えられていることであろう。すなわち、この相撲は田において行なわれたのであり、つまりこれは、農耕儀礼のひとつであったと推察されるのである。<br />　また、相撲が「まれびと神」と「土地の精霊」との対立抗争であったと考え得る典型的な神話として、先にも述べた（原文・『古事記　上巻　葦原中国の平定　四．事代主神の服従』及び『同、五．建御名方神の服従』・本稿2ページ参照）が注目される。<br />　この神話は「国ゆずりの相撲」として、また最古の文献にみられる相撲の話として有名である。<br /><br />　　四．事代主神の服従（翻訳）<br />　　　是れ以って、此の二神は、降到出雲國の伊那佐の小濱に降り到って、十掬劍を拔いて、<br />　　逆に、打ち寄せる浪の穗に刺して立て、其の劍の前に(ｱｸﾞ)み坐(ﾏ)して、其大國主神に<br />　　問い言いました。「天照大御神と高木神の命(ﾐｺﾄを)(ﾓ)って、問うように使わせました。<br />　　汝の　宇志波祁流(ｳｼﾊｸﾙ)葦原中國は、我が御子の知らす所の國ですと言って依り賜まわ<br />　　れます。汝の心は奈何(ｲｶﾆ)」<br />　　　爾に答えて白(ﾓ)うされて、「僕はよう白(ﾓ)うしません。我の子の八重事代主神が、<br />　　是に白うすのがよいでしょう。しかし、鳥と遊び、取魚を取りに御大(ﾐﾎ)の前(ｻｷ)に往<br />　　(ｲ)つて、未だ還って來ません｣といいました。そこで、天鳥船神を遣って、八重事代主<br />　　神を徴(ﾒ)して來て、問い賜いし時、其の父の大神に語って言いました。｢恐之、此の國<br />　　は天神の御子に立奉つります｣と言って、即に、其の船を蹈(ﾌ)み傾けて、天の逆手(ｻｶﾃ)<br />　　を青柴垣に打ち成して隱れてしまいました。<br /><br />　　五．建御名方神の服従（翻訳）<br />　　　ここに、其大國主神に問いました。｢今汝の子　事代主神　このよう白(ﾓｳ)すだろう<br />　　か。亦白(ﾓｳ)すへき子は有るか｣ととひたまいました。是に於いて亦、(大國主神は)白<br />　　されました。｢亦我が子、建御名方神が有る。此れを除いては、無き也｣此の如く白うす<br />　　間に、其の建御名方神は、千引(ﾁﾋﾞｷ)の石を手末(ﾀﾅｽｴ)にささげ來て、｢言誰か來我國<br />　　に來て忍び忍びに此の如く物言(ﾓﾉｲｳ)それなら、力競らべ欲爲(ｼﾀｲ)そして、我が先き<br />　　に其の御手を取りたい｣と言いました。そこで、其の御手を取りますと、即(ｽ)ぐに取成<br />　　立氷に取り成し、亦、取成劍刄に取り成しました。そこで、懼(ｵｿ)れて退(ｼﾘｿﾞ)き居り<br />　　ました。<br />　　　すると、(今度は)其の建御名方神の手を取りたくなって、乞うて歸って取りますと、<br />　　若葦を取る如く、□(ﾂｶ)み批(ﾋｼ)ぎて投げ離しますと、即に、(建御名方神は)逃げ去り<br />　　ました。そこで、追うて往(ｲ)って、科野國(ｼﾅﾉｺｸ)の洲羽海(ｽﾊﾉｳﾐ)に迫(ｾ)め到たって、<br />　　將(ﾏｻ)に殺ろそうとした時、建御名方神は言いました。｢恐(ｶｼｺ)し。莫殺我を殺さない<br />　　でください。此の地を地を除いては、他處へは行きません。亦、我父の大國主神の命に<br />　　不違(ﾀｶﾞｲﾏｾﾝ)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の<br />　　隨(ﾏﾆﾏ)に獻ります｣と。<br /><br />　つまりこの神話も、天照大御神のの神聖な命令の伝達者（みこともち）の建御雷神つまり「まれびと神」が、土地の主である大国主神の子の建御名方神つまり「土地の精霊」と、「国ゆずりの相撲」を行なったが、建御名方神が敗けたという話である。<br />　しかし、この記事の中で重要なのは、建御雷神がはじめに大国主神に「国ゆずりの相撲」について意志を聞いたところ、「私はお答えできません。私の子の八重事代主神がお答えしましょう。しかし、今あいにく美保の岬に鳥狩りや魚取りに行ったまま、まだ帰ってきません。」と答えたことである。天照大御神の伝達者を迎えて、「今、鳥狩りや魚取りに行っています。」というのでは答えになっていないと思われるが、これは後代的な解釈であり、往時の「鳥遊取魚」とはもっと切実な「あそび」であったのである。この「あそび」について、『新潮日本古典集成　古事記』（１）　には「日常でない世界（非日常）に行為することで、祭儀・葬儀・遊猟・旅行・出産・歌舞音曲などの場合をいう。」と注釈がある。<br />　また池田弥三郎は、この「鳥遊取魚」について、次のように解釈している。<br /><br />　　　おそらく、霊魂の保管者としての魚を求めての鎮魂の呪術であって、天つ神のみこと<br />　　もちの来臨という、出雲側にとって、重大な段階のさし迫った折に、出雲の国土を献す<br />　　べきか、あるいは抵抗すべきかの、もっとも重要な霊魂の呪術のために、事代主命は出<br />　　かけて行ったのである。その呪術の成功不成功によって、事代主命は決意しなければな<br />　　らなかったのである。（２）<br /><br />　だからこそ大国主神は、「私の子の八重事代主神がお答えしましょう。」といったのだろう。そして、献上することを告げたということは、すでにこの段階で話は結末を迎えているのである。<br />　つまり、「国ゆずりの相撲」として伝承された話は、「土地の精霊」が「まれびと神」に対して服従を誓う様子を、相撲を介して示したのである。<br />　その意味では、神話時代から相撲は神事として扱われていたといえよう。つまり、いわゆる王朝時代の節会相撲も、その基礎に民族的、地方的な相撲神事をもっていたということではないだろうか。これは、東西の国々から力士を召し出して相撲をとらせるのであったが、その根底には各地方で行なっていた年占を、全国的な規模で、いわば国家的な年占として行なうことだったのである。<br />　また、野見宿禰・当麻蹶速の相撲が、七夕に行なわれたと伝承された事実について、和歌森太郎も盆との関係に注目して、次のように述べている。<br /><br />　　　垂仁天皇の代の当麻蹶速と野見宿禰の相撲の話は、実にこの天皇の　7年7月7日にあっ<br />　　たということになっている。これは、七夕こそ相撲をおこなう最もよき日であると考え<br />　　られていたことを示すものである。こうした文献の上に見られる事実を、一方に念頭に<br />　　置いて、民間伝承を比べてみるならば、その話のなかに七夕の相撲ということがしばし<br />　　ば現われることに気づくであろう。事実今日でも、神社の前の宮相撲を七夕におこなっ<br />　　ているところは少なくないのである。（３）<br /><br />～相撲の芸能化～<br /><br />　このように日本の相撲は、神事として発達し、今なおその名残りを留めており、外国のスポーツと根源において大きく相違している。<br />　外国では、古代オリンピアの祭りは、ヘラクレス（またはゼウス）が戦争に勝利したことから生まれたという起源神話があり、蒙古のオボ祭りの相撲などは初めスポーツを神々に奉納してきた。が、しだいにそれらの宗教的な側面は薄れていった。<br />　しかし日本では、近年の農村構造の著しい変革から、民間信仰の意識は薄れたにもかかわらず、今なお各地の農村では、相撲を伴なう村の鎮魂儀礼の習俗がみられる。<br />　そしてそれらは、例によって「土地の精霊」が「まれびと神」に圧伏し、服従を誓わせられるといった内容のものが多く、その意味においては、これは結末の判らない年占というよりも、筋道（ストーリー）の決まった芸能であり、一種の演劇であるということもできるのである。<br /><br />　愛媛県大三島町の大山祇神社では、旧暦5月5日の御田植祭りに「一人相撲」（４）　が行なわれるが、これは奉仕の少年少女による　田植が行なわれたあと、境内の神田（斎田斎場）前で奉納される。その内容は、仮想の敵を相手に三番勝負を行ない、初めの一番は相手が勝ち、二番は力士が勝ち、三番の決勝では相手に大きく投げ飛ばされて神事相撲は終わる。<br />　この相撲について三隅治雄は、「おそらく、田の精霊（力士）が神を相手に力くらべをして、負ける形を象徴したもの」（５）　と解釈している。つまり、「精霊が力くらべの結果、神に負けて服従を誓い、併せて田に災いしないことを約束する一種のものまねのようなもの」（６）　なのである。<br />　この解釈については、田の精霊を相手に力士が相撲を行ない、田の精霊を喜ばせて災いのないよう期待するという説もあるが、いずれにせよ年占とはいいながらも、もはやこれは筋道（ストーリー）の決まった芸能といえるものである。<br /><br />　その他、全国のいたるところで、神事相撲を見つけることができるが、いずれも芸能化した演劇といえるものが多い。<br />　その一部を挙げるならば、島根の美田八幡宮は旧暦9月9日に「神の相撲」、埼玉の八幡神社は9月15日に「古式相撲の土俵入り」、筑前の太宰府神社は8月19日に「注連打（しめうち）相撲」、豊後の阿蘇神社は7月28日に「相撲神事」、佐世保の住吉神社は9月19日に「宮相撲」、近江の御上神社は10月14日の夜に「芝原（しばはら）相撲神事」、長野の八幡神社は8月1日（今は9月1日）に「八朔（はっさく）相撲」、兵庫の龍野（たつの）神社は4月17・18日の両日に「奉納相撲」、防府の玉祖（たまのおや）神社は9月24日に「占手（うらて）神事」、京都の三宅八幡神社は9月15日に「放生会（ほうしょうえ）相撲」・・・<br />　このように事例を挙げればいくらでも、それぞれに歴史のある神事相撲や、相撲にかかわる縁起を見つけることができる。<br />　一つ一つの事例を挙げるのは兎も角としても、このように様々な形で、今なお続けられている相撲神事は、ある意味では民俗芸能の伝統を、神事であるがゆえに本来の姿のまま今に留めているとも考えられる。<br /><br />　農耕儀礼における年占は、当時の民衆にとって、重要かつ緊迫したものであったと推察されるが、『古事記』における「国ゆずりの相撲」（原文・『古事記　上巻　葦原中国の平定　四．事代主神の服従』及び『同、五．建御名方神の服従』・本稿2ページ参照）や、『日本書紀』における宿禰・蹶速の相撲（原文・『日本書紀　巻第六　活目入彦五十挾芽天皇垂仁天皇』・本稿2～3ページ参照）も、説話を伝承するための媒体として、おそらく意図的に相撲を用いたものであった。<br /><br />～民俗信仰としての相撲～<br /><br />　農耕生活が定着し、特に水田農業が中心となってくると、それに伴なう新しい不安が増大していった。自然に依存することが非常に強かった当時の民衆は、その災害を防止あるいは最小限に留めるために、神への信仰を深めひたすらその恩恵を期待し、豊作ひいては生活の安定を念願した。<br />　これらを考察するにあたり、神話における相撲は、媒体として当時の民俗信仰を伝承したものであって、歴史学的意味はともかく民俗学的には、十分にその手掛かりとなった。<br />　農耕儀礼は、当時の民衆にとって必然の要求であり、また生活手段でもあったのである。そして民衆の間で行われながら、いわゆる年占という性格から、あるいは切実な祈念から、一種の芸能、つまり筋道（ストーリー）の決まった象徴的なものへと洗練されていったのである。<br />　その意味において、民俗信仰としての相撲は、「年占」かつ「民俗芸能」という側面をもっていたということができるのである。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />注　（１）西宮一民『新潮日本古典集成　古事記』　昭和34年6月10日　新潮社　東京　51頁　上段<br />　　（２）池田弥三郎『民俗民芸双書71　芸能と民俗学』　昭和47年5月25日　岩崎美術社　東京　104頁<br />　　（３）和歌森太郎『歴史研究と民俗学』　昭和44年1月15日 弘文堂　東京　19頁<br />　　（４）西角井正慶『年中行事辞典』　昭和33年5月30日　東京堂　東京　417頁　中段<br />　　（５）三隅治雄『芸能史の民俗学的研究』　昭和51年7月30日　東京堂出版　東京　260頁<br />　　（６）同『芸能史の民俗学的研究』　260頁<br /><br /><br />あとがき<br /><br />　本稿は、私の前大学の学部卒業論文（昭和56年度）であった論題〓「相撲」をめぐる信仰と習俗〓の、「年占」に鑑みての、27年振りの再構成による抜粋である。<br />　私なりの、農耕儀礼における年占としての相撲、ひいては日本民族の「勝負事」へ対する宗教感覚のようなものを見出そうと試みた。<br />　民族学的視座においては、和歌森太郎博士、池田弥三郎博士の功績が大いに有効であった。しかし、相撲を「勝負事」として捉えまた考察するとき、その宗教性についての文献は私の集め得る限りにおいては参考となるものが入手できなかったことを残念に思う。従って、この点についての考察は、「私なりの試論」の域を出るものではない。また、深く立ち入った考察も叶わなかったことを不敏薄徳に思うが、ひとまず今後の課題を示唆したに過ぎないものして、乏しく貧しい論を結ぶものである。<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>レポート集</dc:subject>
<dc:date>2008-09-29T14:41:37+09:00</dc:date>
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